【授業】2016年度の担当科目(関大法学部) ― 2016/04/04
【春学期】
導入演習(水1・水2、1年次生必修)
例年どおり、2クラスを担当。
共通テキストの内容に一部変更はあリますが、授業の内容・進めかたに大きな軌道修正は必要ない模様。というわけで、これまでどおり、グループワーク中心でスタディスキルの習得を目指します。
レポート作成指導については、昨年度行なった字数制限の撤廃、参考文献選びについての個別指導(これについては、回を改めて書きたいと思います)を継続。
【秋学期】
基礎演習(1クラス、金3、1年次)
こちらは2年ぶりの担当。
2012年度に行なった、「あえて高校生系教科書を読んでみる」ゼミを4年ぶりに復活させます(12生が卒業したので)。憲法2、現代政治論1・2(1年次生必修)の内容とリンクさせることを念頭に置いて進めたいと考えています。
導入演習(水1・水2、1年次生必修)
例年どおり、2クラスを担当。
共通テキストの内容に一部変更はあリますが、授業の内容・進めかたに大きな軌道修正は必要ない模様。というわけで、これまでどおり、グループワーク中心でスタディスキルの習得を目指します。
レポート作成指導については、昨年度行なった字数制限の撤廃、参考文献選びについての個別指導(これについては、回を改めて書きたいと思います)を継続。
【秋学期】
基礎演習(1クラス、金3、1年次)
こちらは2年ぶりの担当。
2012年度に行なった、「あえて高校生系教科書を読んでみる」ゼミを4年ぶりに復活させます(12生が卒業したので)。憲法2、現代政治論1・2(1年次生必修)の内容とリンクさせることを念頭に置いて進めたいと考えています。
【授業】2016年度の担当科目(関大共通教養科目) ― 2016/04/07
「政治学のすすめ」(金1)
春学期:経・商・社・理工系学部対象
秋学期:文・政策・外・理工系学部対象
昨年度に続き、教科書には川出良枝、谷口将紀(編)『政治学』(東京大学出版会、2012年)を採用。これをもとにした(「沿った」ではない)講義になります。
*実は砂原庸介、稗田健志、多湖淳『政治学の第一歩』(有斐閣、2015年)を採用しようかという思いがチラッと頭をかすめたりもしたのだが、般教の教科書としては高踏的すぎるかということで、躊躇して参考書にとどめた。第1章の議論は、経済学部生なら興味を持ちやすいかもしれないと思ったりもするのだけれども……
春学期:経・商・社・理工系学部対象
秋学期:文・政策・外・理工系学部対象
昨年度に続き、教科書には川出良枝、谷口将紀(編)『政治学』(東京大学出版会、2012年)を採用。これをもとにした(「沿った」ではない)講義になります。
*実は砂原庸介、稗田健志、多湖淳『政治学の第一歩』(有斐閣、2015年)を採用しようかという思いがチラッと頭をかすめたりもしたのだが、般教の教科書としては高踏的すぎるかということで、躊躇して参考書にとどめた。第1章の議論は、経済学部生なら興味を持ちやすいかもしれないと思ったりもするのだけれども……
ミッキーが求めるもの ― 2016/04/18
2016年4月8日(金)
大阪フィルハーモニー交響楽団第497回定期演奏会
フェスティバルホール
指揮:井上道義
ドビュッシー 交響詩「海」
吉松隆 トロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」
プロコフィエフ バレエ音楽「シンデレラ」より
大植英次が大フィルの音楽監督に就任して2年くらいは、朝比奈隆時代を「懐かしむ」声がweb上で散見された。それらを目にするにつけ、大植体制を肯定するにせよ、否定的に見るにせよ、「朝比奈体制との比較なしに論評できんのか?」と思わずにはいられなかった。「大フィルは”アサヒナ・キネン・オーケストラ”とでも改名しなければ生き残れない」はネタとして笑い飛ばすとしても、何かにつけ「朝比奈節」の健在を強調する向きには、いささか辟易したものである。
首席指揮者3年目を迎えた井上道義は、就任以来、「大阪にはラテンのノリが合っている!!」としきりに強調してきた。今回の演奏会でも、ドビュッシーのあとのステージのセッティングの際、「”オレはブルックナーを聴きたいんだっ!!”という向きもあるだろうが、思い切った方向に舵を切りたい」という意味のことを述べて、聴き手の拍手を誘っていた。大フィルのメンバーが入れ替わったように、聴き手のほうも入れ替わりが進んだのか、単純に朝比奈時代を懐古する声は見かけなくなった。客席の反応も、その現れであっただろう。あるいはそれは、朝比奈時代からのファンが離れていった、ということを意味するのかもしれないが……
大フィルはよくも悪くも、生真面目なオケだ。井上の試みは、それをよい意味で壊そうとするものであるといえる。「オリオン・マシーン」でソリストを務めた山本浩一郎のノリと明るさ。井上が大フィルで追求しようとしているものを、そこに見た。
大阪フィルハーモニー交響楽団第497回定期演奏会
フェスティバルホール
指揮:井上道義
ドビュッシー 交響詩「海」
吉松隆 トロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」
プロコフィエフ バレエ音楽「シンデレラ」より
大植英次が大フィルの音楽監督に就任して2年くらいは、朝比奈隆時代を「懐かしむ」声がweb上で散見された。それらを目にするにつけ、大植体制を肯定するにせよ、否定的に見るにせよ、「朝比奈体制との比較なしに論評できんのか?」と思わずにはいられなかった。「大フィルは”アサヒナ・キネン・オーケストラ”とでも改名しなければ生き残れない」はネタとして笑い飛ばすとしても、何かにつけ「朝比奈節」の健在を強調する向きには、いささか辟易したものである。
首席指揮者3年目を迎えた井上道義は、就任以来、「大阪にはラテンのノリが合っている!!」としきりに強調してきた。今回の演奏会でも、ドビュッシーのあとのステージのセッティングの際、「”オレはブルックナーを聴きたいんだっ!!”という向きもあるだろうが、思い切った方向に舵を切りたい」という意味のことを述べて、聴き手の拍手を誘っていた。大フィルのメンバーが入れ替わったように、聴き手のほうも入れ替わりが進んだのか、単純に朝比奈時代を懐古する声は見かけなくなった。客席の反応も、その現れであっただろう。あるいはそれは、朝比奈時代からのファンが離れていった、ということを意味するのかもしれないが……
大フィルはよくも悪くも、生真面目なオケだ。井上の試みは、それをよい意味で壊そうとするものであるといえる。「オリオン・マシーン」でソリストを務めた山本浩一郎のノリと明るさ。井上が大フィルで追求しようとしているものを、そこに見た。
「誰の演奏か」という問題 ― 2016/04/19
2016年4月10日(日)
京都市交響楽団スプリング・コンサート
京都コンサートホール
指揮:高関健
ピアノ:松田華音
グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー バレエ組曲「くるみ割り人形」
ラフマニノフ パガニーニの主題による狂詩曲
ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
先月の定期に続き、高関=京響を聴く。
個人的に書き留めておくべきはパガニーニ。以前、ドミトリー・リス指揮の大フィル、ダン・タイソンのピアノで実演に接してはいたものの、正直、ほとんど印象に残らなかった(このときは、メインのタコ8もさっぱりだった記憶が)。今回は、はじめてこの曲を「イイ!!」と思えた気がする。
結局のところ、これはわたしの推している高関さんの指揮で、集中して聴けたことが一番の要因だったかもしれない。リス=ダン・タイソンのときは、曲に興味はあったものの、演奏家に対する関心はなかったこともあってか、「どんな演奏になるのか」という事前の期待もなかった(とりあえず、有名曲をナマで聴いてみるか、程度の気持ちであったことは否定できない)。このため、今回とは対照的に、演奏に集中できず、パッとしない印象しか残らなかった理由であろう。
例の佐村河内問題の折、「人は "物語" を抜きに音楽を聴いているのか」ということが話題になった。「誰の演奏か」「どこで聴いたか」……曲の印象は、やはり、その時々のコンテクストに左右されるようである。
京都市交響楽団スプリング・コンサート
京都コンサートホール
指揮:高関健
ピアノ:松田華音
グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー バレエ組曲「くるみ割り人形」
ラフマニノフ パガニーニの主題による狂詩曲
ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
先月の定期に続き、高関=京響を聴く。
個人的に書き留めておくべきはパガニーニ。以前、ドミトリー・リス指揮の大フィル、ダン・タイソンのピアノで実演に接してはいたものの、正直、ほとんど印象に残らなかった(このときは、メインのタコ8もさっぱりだった記憶が)。今回は、はじめてこの曲を「イイ!!」と思えた気がする。
結局のところ、これはわたしの推している高関さんの指揮で、集中して聴けたことが一番の要因だったかもしれない。リス=ダン・タイソンのときは、曲に興味はあったものの、演奏家に対する関心はなかったこともあってか、「どんな演奏になるのか」という事前の期待もなかった(とりあえず、有名曲をナマで聴いてみるか、程度の気持ちであったことは否定できない)。このため、今回とは対照的に、演奏に集中できず、パッとしない印象しか残らなかった理由であろう。
例の佐村河内問題の折、「人は "物語" を抜きに音楽を聴いているのか」ということが話題になった。「誰の演奏か」「どこで聴いたか」……曲の印象は、やはり、その時々のコンテクストに左右されるようである。
祝60年、600回 ― 2016/04/20
2016年4月15日
京都市交響楽団第600回定期演奏会
京都コンサートホール
指揮:広上淳一
コープランド 市民のためのファンファーレ
W.A.モーツァルト 交響曲第41番
R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
10日のスプコンに続き、京響を聴く。今シーズン、京響は60周年を迎えたが、偶然にも、シーズンの幕開けの定期が600回目となった。関西のプロオケで、今、最も充実した演奏を聴かせてくれるのは京響だと感じているが、今回も、その期待は裏切られなかった。
最初のコープランド。トランペットが高音を外しそうになり、一瞬ヒヤッとしたが、すぐに立ち直る。2曲目のモーツァルト。最近は、それなりの団員を抱えているオケでも、モーツァルトとなると大きくとも12型で演奏されることが多いように思うが、今回の京響は何と14型。とはいえ、41番には、これもまたよし。威風堂々とした「ジュピター」だった。
最後のツァラトゥストラは、広上=京響コンビの本領発揮。ただ、オルガンの低音が、よくいえば迫力がある、悪くいえば耳につく響きで、調整のできていないサブウーファーを聴かされているようだったのが珠に傷だったか。全体としては、まったく問題にならないようなことかもしれないが……
さて、10年前の50周年のときは、1日でブラームスの交響曲全曲演奏を、奇数番号を大友直人、偶数番号を井上道義が振り分けるかたちで聴かせてくれた京響。今シーズンは、定期のプログラムにタコ4、トゥランガリラ、マラ8と大曲が並ぶ。10年後の70周年は、どうなっているのだろうか。
京都市交響楽団第600回定期演奏会
京都コンサートホール
指揮:広上淳一
コープランド 市民のためのファンファーレ
W.A.モーツァルト 交響曲第41番
R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
10日のスプコンに続き、京響を聴く。今シーズン、京響は60周年を迎えたが、偶然にも、シーズンの幕開けの定期が600回目となった。関西のプロオケで、今、最も充実した演奏を聴かせてくれるのは京響だと感じているが、今回も、その期待は裏切られなかった。
最初のコープランド。トランペットが高音を外しそうになり、一瞬ヒヤッとしたが、すぐに立ち直る。2曲目のモーツァルト。最近は、それなりの団員を抱えているオケでも、モーツァルトとなると大きくとも12型で演奏されることが多いように思うが、今回の京響は何と14型。とはいえ、41番には、これもまたよし。威風堂々とした「ジュピター」だった。
最後のツァラトゥストラは、広上=京響コンビの本領発揮。ただ、オルガンの低音が、よくいえば迫力がある、悪くいえば耳につく響きで、調整のできていないサブウーファーを聴かされているようだったのが珠に傷だったか。全体としては、まったく問題にならないようなことかもしれないが……
さて、10年前の50周年のときは、1日でブラームスの交響曲全曲演奏を、奇数番号を大友直人、偶数番号を井上道義が振り分けるかたちで聴かせてくれた京響。今シーズンは、定期のプログラムにタコ4、トゥランガリラ、マラ8と大曲が並ぶ。10年後の70周年は、どうなっているのだろうか。
【映画】細雪(1983年) ― 2016/04/21
谷崎潤一郎『細雪』をはじめて読んだのは大学に入学してからのことだったが、阪神間の空気感に接してから読んだのは、結果としてはよかったと思う。最初は通読したが、最近では、正月休みに、本をパカッと開いて、そこから時間のあるかぎり読み進めるのが年中行事になっている。作品の緩やかな内容 —無論、大小の事件がないわけではないが— と、年始の空気感とがマッチするのである。
さて、標題のとおり、今回、1983年の映画版(監督:市川崑)を視た(日本映画専門チャンネルで録画)。
さすがに映像はHD画質に慣れた現在となっては古さを感じさせるし(フィルムだとまた違うのかもしれないが)、電子楽器の音楽も、やはり古臭い印象を受ける。あの長大な原作のエピソードの多くを2時間半弱に詰めこんでいることもあって、展開もめまぐるしい。妙子と奥畑(プラス雪子)の「新聞の事件」など、原作を知らなければ、何のことやらわからないかもしれない。その他、野村のキャラクターが澤崎のそれと結合されていたりと、時間の制約の中で、できるかぎり原作の全体像を伝えようとする意図(苦心?)が窺える。
首を傾げたのが、貞之助の設定。職業が経理士(公認会計士)から船場の繊維問屋(と思われる)の部長職に変更されているのはよしとしても、雪子に懸想していたり、井谷に家内(いえうち)のことで愚痴をこぼした挙句、手を重ねたりと、原作のインテリキャラの面影は微塵もなく、船場の遊び人の若旦那としか思われない(原作の奥畑に近い設定になっている?)。貞之助は一歩距離を置いて三姉妹(幸子、雪子、妙子)を見ているところに意味があるのだが……存在感のある登場人物だけに、不満が残る。こと貞之助については、原作を読まずにこの映像だけで済ませることは「許されない」と言ってよい。
余談だが、東谷(原作では御牧)を演じる江本孟紀(!)は、まったくセリフを発しない。さすがに、演技の素人にセリフを当てることははばかられたのか。そういえば、この映像化は「ベンチがアホやから」事件のころでもある。
さて、標題のとおり、今回、1983年の映画版(監督:市川崑)を視た(日本映画専門チャンネルで録画)。
さすがに映像はHD画質に慣れた現在となっては古さを感じさせるし(フィルムだとまた違うのかもしれないが)、電子楽器の音楽も、やはり古臭い印象を受ける。あの長大な原作のエピソードの多くを2時間半弱に詰めこんでいることもあって、展開もめまぐるしい。妙子と奥畑(プラス雪子)の「新聞の事件」など、原作を知らなければ、何のことやらわからないかもしれない。その他、野村のキャラクターが澤崎のそれと結合されていたりと、時間の制約の中で、できるかぎり原作の全体像を伝えようとする意図(苦心?)が窺える。
首を傾げたのが、貞之助の設定。職業が経理士(公認会計士)から船場の繊維問屋(と思われる)の部長職に変更されているのはよしとしても、雪子に懸想していたり、井谷に家内(いえうち)のことで愚痴をこぼした挙句、手を重ねたりと、原作のインテリキャラの面影は微塵もなく、船場の遊び人の若旦那としか思われない(原作の奥畑に近い設定になっている?)。貞之助は一歩距離を置いて三姉妹(幸子、雪子、妙子)を見ているところに意味があるのだが……存在感のある登場人物だけに、不満が残る。こと貞之助については、原作を読まずにこの映像だけで済ませることは「許されない」と言ってよい。
余談だが、東谷(原作では御牧)を演じる江本孟紀(!)は、まったくセリフを発しない。さすがに、演技の素人にセリフを当てることははばかられたのか。そういえば、この映像化は「ベンチがアホやから」事件のころでもある。