曾祖母の死 ― 2016/03/28
3月27日早朝、母方の曾祖母の一人が亡くなった。98歳だった。
曾祖父とは再婚(母方の祖母の継母ということになる)だったため、「血のつながり」はない。ただ、わたしは「初曾孫」だったということもあってか、何かと気にかけてもらっていた。わたしの書いたものがはじめて公になったときには、抜刷を求められさえした。父によると、それを読んで「わかるところもあった」と言っていたらしい。
こどものころ、母の帰省の際に親子で訪問すると、妹とわたしに必ずお菓子—「チョコ玉」か「アルファベットチョコレート」が必ず含まれていた。オブラートに包まれたゼリーや、サクマの缶入りドロップも懐かしい—をくれたものであった(もっとも、大学進学直後に訪問した折、ハイチュウをくれたときにはひたすら苦笑したが)。サントリーオールドを常備していて、年始など、呑んだくれのわが父には必ずそれをふるまっていた。信心深く、「お四国」(四国八十八ヶ所)や「伊予十三仏」—もちろん、これらの寺巡りをしたこともある—のカレンダーを常用し、椿神社=伊豫豆比子命神社に近いわが実家を、冬の「椿さん」参りの拠点と心得ていた。1984年1月から1990年3月にかけて、父の転勤にともない、わたしたち一家は松山を離れていたが、1990年の4月に松山に戻ったときには、「椿さんに行きやすくなる」と喜んでいたらしい(もっともトシのこともあって、寒いさなかの椿さん参りは結局叶わなかったのだが)。アロエを万能の傷薬と信じていて、30年ほど前、ひどい火傷を負ったにもかかわらず、アロエの汁を塗りつける応急処置だけで済ませて傷を悪化させ、病院通いをしたこともあった。このときは、わが母が呆れて「火傷はすぐ冷さんといけんのに」と言ったのに対して、「そんなこと知らんかった」と返していたことを思い出す。
最後に会ったのは、4、5年前の夏のことである。そのころは、すでに施設に入っていた。いくつか癌を抱えていたらしいが、高齢のため、手術や化学療法、放射線治療等は行なわれてはいなかった。寝たきりであったが、わたしの顔を見るなり、顔に赤味が差し、「祐治、あんた、早う嫁さんもらわんと。結婚して、こどもを持って一人前やろうが」と言い放った。これには一緒に訪問した両親、大伯母(母方の祖母の姉)とともに、苦笑いするほかなかった。同じことは成人してから常々言われていて、「あんたもこどもはなかろうが」と内心思ったこともあった—そもそもわたしは。「家庭を持って一人前」などとは考えていない—が、もちろん、口には出さなかった。
社会問題については人一倍関心を持ち、重大事件を報じた購読紙(地元紙『愛媛新聞』)は、切り抜きではなく、当日の朝刊そのものを保管していた。10年ばかり前のこと、「ゴミの収集について納得がいかない」と、市役所に乗りこんで説明を求めたこともあったという。黒澤明『生きる』の、冒頭のシーンを思わせるエピソードである。
政治的なことについては、割合素朴に「戦後民主主義」を信奉していたようだ。しかし、戦前のことについては、聞かずじまいであった。敗戦のときには28歳だったわけだが、もとより戦後民主主義的な価値、あるいはそれに通じるような価値を抱いていたのか、それとも環境の変化にあっさり順応しただけだったのか、その点については永久にわからなくなってしまった。これは、『生きる』冒頭に登場する「主婦」たち—曽祖母より少し下、ほぼ同年代になる—にも覚える疑問でもあるのだが……
曾祖父とは再婚(母方の祖母の継母ということになる)だったため、「血のつながり」はない。ただ、わたしは「初曾孫」だったということもあってか、何かと気にかけてもらっていた。わたしの書いたものがはじめて公になったときには、抜刷を求められさえした。父によると、それを読んで「わかるところもあった」と言っていたらしい。
こどものころ、母の帰省の際に親子で訪問すると、妹とわたしに必ずお菓子—「チョコ玉」か「アルファベットチョコレート」が必ず含まれていた。オブラートに包まれたゼリーや、サクマの缶入りドロップも懐かしい—をくれたものであった(もっとも、大学進学直後に訪問した折、ハイチュウをくれたときにはひたすら苦笑したが)。サントリーオールドを常備していて、年始など、呑んだくれのわが父には必ずそれをふるまっていた。信心深く、「お四国」(四国八十八ヶ所)や「伊予十三仏」—もちろん、これらの寺巡りをしたこともある—のカレンダーを常用し、椿神社=伊豫豆比子命神社に近いわが実家を、冬の「椿さん」参りの拠点と心得ていた。1984年1月から1990年3月にかけて、父の転勤にともない、わたしたち一家は松山を離れていたが、1990年の4月に松山に戻ったときには、「椿さんに行きやすくなる」と喜んでいたらしい(もっともトシのこともあって、寒いさなかの椿さん参りは結局叶わなかったのだが)。アロエを万能の傷薬と信じていて、30年ほど前、ひどい火傷を負ったにもかかわらず、アロエの汁を塗りつける応急処置だけで済ませて傷を悪化させ、病院通いをしたこともあった。このときは、わが母が呆れて「火傷はすぐ冷さんといけんのに」と言ったのに対して、「そんなこと知らんかった」と返していたことを思い出す。
最後に会ったのは、4、5年前の夏のことである。そのころは、すでに施設に入っていた。いくつか癌を抱えていたらしいが、高齢のため、手術や化学療法、放射線治療等は行なわれてはいなかった。寝たきりであったが、わたしの顔を見るなり、顔に赤味が差し、「祐治、あんた、早う嫁さんもらわんと。結婚して、こどもを持って一人前やろうが」と言い放った。これには一緒に訪問した両親、大伯母(母方の祖母の姉)とともに、苦笑いするほかなかった。同じことは成人してから常々言われていて、「あんたもこどもはなかろうが」と内心思ったこともあった—そもそもわたしは。「家庭を持って一人前」などとは考えていない—が、もちろん、口には出さなかった。
社会問題については人一倍関心を持ち、重大事件を報じた購読紙(地元紙『愛媛新聞』)は、切り抜きではなく、当日の朝刊そのものを保管していた。10年ばかり前のこと、「ゴミの収集について納得がいかない」と、市役所に乗りこんで説明を求めたこともあったという。黒澤明『生きる』の、冒頭のシーンを思わせるエピソードである。
政治的なことについては、割合素朴に「戦後民主主義」を信奉していたようだ。しかし、戦前のことについては、聞かずじまいであった。敗戦のときには28歳だったわけだが、もとより戦後民主主義的な価値、あるいはそれに通じるような価値を抱いていたのか、それとも環境の変化にあっさり順応しただけだったのか、その点については永久にわからなくなってしまった。これは、『生きる』冒頭に登場する「主婦」たち—曽祖母より少し下、ほぼ同年代になる—にも覚える疑問でもあるのだが……